「智恵子抄」と「真昼のプリニウス」 | Around the Corner

「智恵子抄」と「真昼のプリニウス」

この1ヶ月ほど頭から離れない物語が2つある。



「智恵子抄」(高村光太郎)。

http://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/46669_25695.html


始めて読んだのは小学校の高学年ぐらいか。

「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎)などと一緒に、分厚く何巻もある少年少女向けの全集みたいなやつで読んだ。

もちろん、その頃には意味など分かるわけもなく、ただ活字を眺めていた。


タイトルが父方の祖母と同じ名前だった。

その全集も祖母の家にあったもので、溺愛されていた初孫に教育のつもりで渡したのだろう。

もう本はないけれど、あとで10代の終わりぐらいに文庫本を買った。


身近な死を作品にすることは残酷だと思う。

単なるメモと、推敲された作品とでは雲泥の差がある。

諸説あるのは重々承知しているけれど、今読んでみても、純粋の向こうにある冷静さが残酷に思えてしまう。

まあ、その対象への冷静さが作品の透明感を生んでいるのだろうけど。


光太郎は、なぜ、詩というものに昇華しようとしたのだろう?


以前から、疑問だった。

そして、いま、また、その疑問が沸々とある。




「真昼のプリニウス」(池澤夏樹)。

真昼のプリニウス (中公文庫)/池澤 夏樹
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火山を舞台にした初期の作品だ。
誤解を恐れずに書いてしまえば、地球は生きているよ、がテーマになっている。

3.11以降、「日本沈没」でもなく「ドラゴンヘッド」でもなく、どういうわけか、この小説が浮かんだ。

何度も読み返したとか、ものすごく好みだとか、そういうわけでも何でもない本が頭に出てきたことが不思議だった。どちらかというと父である福永武彦の「夢見る少年の昼と夜」あたりのほうが趣味である。

本棚を漁れば、どこかに見つかるかもしれない。

でも、探さないと思う。


 

ほとんど忘れていたこの小説を思い出したこと、ただそれだけが、何か居心地のわるい感じで。



2つの物語が頭から離れない理由というか、後ろに流れるモノは自分でも分かっている。

昨年から言葉と文章にしているものに、ひとつのモチーフとして地震を扱っていたからだ。

アドバイスを受け、何度か組み立て書き直して、それなりに形にしたところで3.11があった。


当たり前だけど、全て捨てようと思った。


普段通りに行こうぜ、とか思いもするけれど、それを言っている時点で、実は普段通りではない。

「普通」は意識してないからこそ「普通」なんだろう。

 

幾日か過ぎて、違うことを考えて、戻ってきた。


ある対象を表現することに、残酷さが伴うなら、その残酷に付き合ってみようかと。

それしかないよな……。

いろいろと心配事は尽きない世の中だけどね。


基本、ワガママだから。


残酷。昔から他に的確な言葉が見つからない。

もっと、いい呼び方があればと思うけど。

おそらく、多種多様な観点からとか、物事の深淵までとか、無理にでも自分の頭をいじめてるのが推敲のイメージだからだろう。

 

 

ちなみにブログでは推敲なんてしない。

ノートにペンで殴り書きしていたのが、PCに、電脳世界に、代わっただけ。

書き直したことなんてない。

ここまで、およそ30分。

自分への確かめ殴り書きに30分。

おバカなお漏らし文未満に30分。